院長紹介

院長 新妻 克之

1995年4月
岩手医科大学歯学部 卒業
福島県内で勤務
2000年4月
にいつま歯科 開院
2016年9月
移転リニューアル
にいつま歯科 院長 院長 新妻 克之

院長の生い立ち

福島県いわき市の北部にある久ノ浜という小さな港町で昔ながらの雑貨屋を営む両親のもとに生まれました。14歳と12歳離れた兄が二人います。父は女の子が欲しかったようですが、残念ながらまた男の子が生まれてしまいました。母親が高齢出産だったこともあり、生まれつき心臓に病気がありました。

体が弱くしょっちゅう風邪をひいていました。普段の生活には全然支障無く、友達と一緒に走り回ってました。 しかし、小学校へ入学すると体育の授業で激しい運動はさせてもらえず、みんなが走っているのをいつも見学してました。

水泳の授業も見学でした。6年間で小学校のプールに入ったのは2回です。2年生になって初めてのプール授業で、消毒槽から出たら先生に「見学してましょうね」と言われ、それきり授業でのプールには入ったことがありません。夏休みのプール開放で1回。おかげで浜っ子なのに泳ぐことが出来ません。

さらにつらかったのは大休憩の時間に全校生徒が校庭を走るときです。
みんなが校庭の周りを走っている時に、いつも一人だけ真ん中にポツンと立っているのはつらかったです。

中学校へ入り、やっと心臓の手術をしましたが、中学の3年間もマラソンなどの持続的な激しい運動はしませんでした。部活は吹奏楽部に入り、パーカッションを担当してました。

高校に入っても吹奏楽部に入りましたが、そこが強豪校で週3日の練習にもかかわらずで10数年連続関東大会出場というところでした。福島県から茨城県の高校へ入学したので、全然知らずに入部してしまい物凄く大変でしたが、とても充実した3年間を過ごせました。私立の学校なのに私服というめずらしい校風でした。当時は有名進学校に落ちて、滑り止めで受けたのをしぶしぶ入学してくる人が多かったようです。

早くも人生の挫折を味わった人が沢山いて、自由に高校生活を満喫しているようでした。中には変わった人がいて幼稚園児の着るような服と黄色い帽子を被って登校している人や、サラリーマンさながらアタッシュケースで颯爽と登校して来る人もいました。

噂では校長先生をじゃんけんで決めるらしいという話までありました(笑)。 大学は兄と同じ岩手医科大学へ運良く入学することが出来ました。盛岡はとても寒い所で、真冬の最高気温がマイナスなんて時が普通でした。いわき市に住んでいた時には朝起きた時に氷が張っているものだと思ってましたので、真昼間から氷が張る状況にびっくりしました。

推薦入学試験の面接時には、吹奏楽で頑張っていたのでぜひオーケストラ部に入学しますと言っていたのですが、いざ入学してしまうと運動部に入部したくなってバドミントン部に入部してしまいました。教養課程、専門課程と授業内容が濃くなるにつれ、歯科医師への階段を上っているんだなという実感がありました。

文系の大学のように休んでも後から取り返せるというものではなく、試験もかなり厳しいものでした。4年生の後期試験の1週間前に同級生から水疱瘡をうつされ、それに気が付いた時にはもう留年決定だなと思って本当に目の前が真っ暗になりました。大学の付属病院に行ったら隔離された治療室に連れて行かれ、1回1時間の点滴を3日連続で打ちました。

その甲斐あってか試験日までに体調が回復して、得意の一夜漬けで全ての試験を乗り切りました。結局留年は回避できましたが、水疱瘡が発症したと分かった、あの時のゾッとした気持ちは今でも忘れられません。6年生になるとクラス委員長に選ばれましたが、みんなに助けられながらやっている状態でした。

国家試験も無事合格し、附属病院の第二保存科という医局に入局しました。歯周病治療専門の科です。そこで3年間歯周治療について研鑽し、同時に福島県の原町の歯科医院へ隔週で出張しながら一般歯科の治療に励みました。

4年目になる頃に、出張先の先生から常勤で務めないかと声を掛けていただき、務めることになりました。 非常に混んでいる歯科医院でしたが、充実した日々を過ごしていました。

3年が過ぎた頃、父親がそろそろ開業したらどうだと言ってきました。当時まだ30歳そこそこでしたが、母親が70歳を超えていたのを考えると開業して一人前になった所を見せて起きたいと思い、思い切って開業することにしました。
開業当時はまだ誰にも知られていないので1日数える程度の患者さんでしたが、だんだん地域の皆さんに知られ、そして皆さんに支えられ、ここまでやってくることが出来ました。

しかし、平成23年3月11日に東日本大地震が起こりました。地震が起こったその時はちょうど患者さんが居ませんでした。病院の被害はカルテ棚が倒れたくらいで、診療機材には問題ありませんでした。ひどい揺れだったけど周りはそんなに被害が無いように見えたので、楽観視していました。しかし時間が経つにつれ、津波が各地を襲い甚大な被害が出ていることが分かりました。しかしそんな状況でもまさか実家が津波に襲われているとは全然思ってませんでした。

3月12日の早朝に幼馴染からの電話で「お前の実家が燃えているぞ!」といわれてびっくりしました。確かに、海から歩いて2分程度の所に実家があるので津波が来るのは当然といえば当然でした。しかも倒壊した家屋から火が出て延焼し、実家が燃えているかもしれなかったのです。

慌てて飛び起き、実家へ向かうと国道に船が打ち揚げられたり、倒壊した家屋や流されてきた車が道路わきに溜まっていたりと凄惨な光景が飛び込んできました。やっとの思いで実家のある久ノ浜までたどり着くと、まるで空襲にでもあったかのように町が焼け焦げてました。もう実家は燃えてしまっただろうと思いましたが、がれきをかき分けて行ってみると私の実家は奇跡的に燃えずに残ってました。

家のまえの道の向こう側はほとんど燃えて無くなっていました。同級生の実家も無くなっていました。一晩にして町が壊滅状態でした。 もとのような生活に戻るのは何年もかかると思ってました。

しかし、いわき市に残って頑張る人がいる。そう思うと自分も頑張らなきゃいけない。自分が出来るのは地域の歯科医療に貢献するのが使命と思い、今まで以上に頑張らなければいけないと思っています。